辻政信をめぐるリサーチとパフォーマンス
SAM Residencies
シンガポール美術館(シンガポール)
2025年9、11月滞在(10月はインドネシア・ジョグジャカルタに滞在)
2025年9月から11月にかけて、シンガポール美術館(Singapore Art Museum, SAM)のレジデンシープログラムに参加し、東南アジアにおける日本占領期の歴史と故郷・石川県との繋がりをテーマにリサーチを行った。そこから派生し、現在も継続しているのが、石川県出身で旧日本陸軍の作戦参謀として活動し、戦後は国会議員を務めた辻政信(つじ まさのぶ)と、その銅像をめぐるリサーチと制作である。

シンガポールでは、華僑粛清(Sook Ching)を指導したとされる辻が現地でどのように記憶されているかを調べ、石川県に現存するその銅像について多くの人々と議論を重ねた。帰国後は、報告会を通じて生まれたつながりを手がかりに、銅像への小さな介入(パフォーマンス)とその記録撮影を行った。辻の遺族や地域住民への聞き取り、銅像制作者のリサーチなど、調査は継続中である。

辻政信は1902年、現在の石川県加賀市に生まれた。炭焼きの貧しい家の出身ながら、陸軍幼年学校から陸軍士官学校(首席卒業)、陸軍大学校へと進み、帝国陸軍の作戦参謀となった。第二次世界大戦中、ノモンハン事件(1939年)、マレー作戦と自転車部隊によるシンガポール電撃陥落(1941–42年)、ガダルカナル島の戦い(1942–43年)など数々の作戦に参謀として関わり、「作戦の神様」と称えられた。一方で、命令系統を無視した独断専行と戦争犯罪への関与が繰り返し指摘されてきた人物でもある。シンガポール陥落直後の華僑粛清を主導したとされるほか、フィリピンのバターン半島では捕虜の処刑を独断で命じたとも言われている。敗戦時にバンコクにいた辻は、戦犯として裁かれることを逃れるため仏教僧侶の姿に変装して潜行に入り、タイ、ラオス、ベトナム、中国を経て約3年後に密かに帰国した。戦犯指定が解除された1950年、その逃亡の経緯を綴った『潜行三千里』を出版する。本は戦後日本で大ベストセラーとなり、真夏の金沢・兼六園には3万人もの聴衆が講演に集まったという記録が残っている。




その人気を背に政界へ進出し、1952年の衆院選に石川1区からトップ当選、1959年の参院選では全国区第3位の得票を集めた。1961年、現職の参議院議員のまま単身ラオスへ渡り、ジャール平原付近で消息を絶った。ラオス共産勢力による処刑やCIAによる暗殺など諸説が語られているが、生死は現在も確認されていない。1968年に法的に死亡宣告が下され、失踪から18年後の1979年、「いつか帰ってくる」と信じた地元の人々や支援者が寄付金を集め、加賀市荒谷町に台座を含め高さ約4.6メートルの銅像を建てた。銅像を制作した彫刻家・故石田康雄(金沢美術工芸大学名誉教授)によると、下を指差すポーズは「日本の行末を示す」ものだという。





シンガポール美術館に滞在中、辻政信が現地の歴史的記憶においてどのように位置づけられているかについて調査を行った。旧フォード工場やシンガポール国立博物館における日本占領期の展示では、「マレーの虎」と呼ばれた第25軍司令官・山下奉文の名と顔を多くの場所で確認できたが、Sook Chingへの関与が指摘される辻政信については、国立博物館の映像のなかで一瞬顔写真が映るのを確認したのみだった。

オープンスタジオではリサーチ内容を共有しながら多くの人々と石川県に残る銅像の存在について話したが、山下奉文の名を知る人はいても、辻を知る人には一人も出会わうことはなかった。また、日本占領下のシンガポールを題材にした作品を制作しているシンガポール出身のアーティストと直接出会うことができた。彼らの祖先はSook Chingを経験したが運よく生き延びることができ、また、国からマレーシア、シンガポールへ移動する中で、数人の子供を失った経験を持つ。しかし彼らも、辻の名前は知らなかった。辻に関する書籍を発表しているシンガポールの研究者もいるが、世代が変わり若い世代にはほとんど知られていないようだった。


2025年12月、レジデンシーから帰国後、コートヤードHIROO(東京)、京都精華大学(ジダーノワ・アリーナ ゼミ)、アーティストランスペース Hey!長屋(金沢)、どんぐりの里(石川県小松市)の4箇所にて、リサーチの報告会を行った。この報告会を通じて出会った地元住民の協力によって、辻の遺族へのコンタクトやパフォーマンス実施へ繋がっている。

2025年10月、レジデンシー期間中に滞在したインドネシア・ジョグジャカルタで、日本占領期に日本軍が築いた「Gua Jepang」と呼ばれるトーチカを訪ねた。インド洋に面した丘に残るトーチカは、連合軍の上陸に備えて造られたもので、建設には「ロームシャ(労務者)」として動員された現地の人々が従事させられた(そしてその過程で多くの人が亡くなった)と伝えられる。私がGua Jepangを訪問した時、遊んでいた地元の子どもたちが、トーチカの銃眼から私に向かって無邪気に銃を撃つ真似をした。



この経験を出発点として、2026年1月、Singapore Art WeekにSAMレジデンシーのチームとして参加し、辻政信の銅像に関するリサーチ資料と、観客に宛てた手紙(指示書)を展示した。指示内容は「あなたが指差したい方向を指差し、その方向のテキスト・写真・ドローイングを送ってください」というものである。この指示書に応えて届いた写真には、シンガポールのさまざまな場所で指差された風景が写っている。





2026年3月、加賀市役所文化課とのやりとりを通じて、辻政信の銅像について以下のことがわかった。
- 銅像の台座が約2.2メートル、銅像が約2.4メートルで、全長は約4.6メートル
- 銅像の地盤部分は一度作り直されている
- 銅像周囲の囲いは後から設置されたもの
- 銅像が建っている土地は加賀市が所有(1998年頃に寄贈された)
- 銅像の所有・管理は「荒谷地区まちづくり推進協議会」が担当。かつては農協が管理していたが、合併後に現在のオペレーション体制になった
- 銅像の周りの草刈りは、まちづくり推進協議会から地元住民に金銭を払って依頼している。その運営費は銅像建立時の寄付金で賄われているが、資金が底をつきかけている
- 推進協議会は加賀市に銅像の管理を引き継いでほしいと考えているが、交渉は進んでいない
- 辻家は銅像の管理に一切関わっていない
つまり、辻政信の銅像は公共の空間に設置されていることが判明した。
2026年4月、加賀市役所と荒谷地区まちづくり推進協議会の許可を得て、現場でのパフォーマンスと記録撮影を実施した。クレーン車を用いて銅像の全体を撮影・アーカイブしたうえで、シンガポールのチャイナタウンで購入した鏡を使い、「日本の行末を示す」とされた辻の指差しを、その本人の顔へと跳ね返すという小さなアクションを行った。


戦後、辻政信の逃亡記がベストセラーとなり、政治家として国民に支持されたという現象は、戦争責任を曖昧にしたまま高度経済成長へと走っていった戦後日本社会の縮図であり、中ソ共産化を警戒した冷戦期のアメリカの対日政策とも複雑に絡み合っている。日本のアジア諸国への加害がどのように風化し、あるいは意図的に薄められてきたか。辻政信という人物と公共空間にいまも存在する銅像は、戦後日本社会が何を記憶し、何を忘れてきたかを問うための入り口になりうるのではないかと考えている。また、このプロジェクトが目指しているのは、辻の銅像を媒介として、現在進行形で起きている政治的状況との地続きについて人々と対話する場をひらいていくことである。
このほかにも、滞在中に調べていたことは多い。そのひとつが、日本軍が占領地に持ち込んだ「時間」である。シンガポールやインドネシアでは時計が東京時間に合わせられ、現地の人々の生活のリズムとのあいだにずれが生じた。ほかにも、日本軍が発行し「バナナ・マネー」と呼ばれ、戦後には紙切れとなった軍票。戦費を集めるために売り出され、高額の当せん金は実際には支払われなかったとも言われる宝くじ「昭南証券」と「興南彩券」。そして、インドネシアで「ロームシャ」として動員された人々や、住民を戦争協力へと組織したジャワ奉公会。いずれも、占領が人々の日常の細部にまで入り込んでいたことを物語っている。
また、この滞在をきっかけにアジア各地の人々やアーティスト・コレクティブ、アーティスト・ラン・スペースとのつながりが生まれた。その関係を今後も深めながら、地元・石川県の歴史にも目を向け続けていきたい。





