MASS MoCA Open Studios
マサチューセッツ現代美術館(ノースアダムス、アメリカ)
2026年レジデンシー:MASS MoCA Residency (Full General Fellowship)
滞在期間:2026年6月4日–30日(27日間)
助成:公益財団法人 小笠原敏晶記念財団
2026年6月4日から30日までの約1ヶ月間、米国最大級の現代美術館であるMASS MoCA(マサチューセッツ現代美術館)のレジデンシープログラムに参加した。滞在中は、幕末に太平洋を漂流したジョン万次郎(中浜万次郎、1827–1898)を起点に、近代化、グローバリゼーション、そしてこの美術館の建物が辿った歴史がどのように交差しているかを追うフィールドワークとリサーチを行った。

MASS MoCAへの滞在が決まったとき、真っ先に思い浮かんだのが万次郎だった。日本人として最初期にアメリカで暮らした彼が身を寄せていたのも、同じマサチューセッツ州である。
私はこれまで、シチュアシオニスト・インターナショナルの「漂流(Dérive)」の手法をアートプラクティスに取り入れ、「移動」「越境」「偶然性」をテーマに制作してきた。個展『流されずに流されていく』もその一つである。ただし私の漂流は、あくまで自ら選び取った方法としての漂流である。鎖国によって海外渡航が禁じられていた時代に、選ぶ余地のない本物の「漂流」を経験した人物が、自分がこれから滞在する場所に流れ着いていた。その偶然のなかに、自分がこの土地でやるべきことがあると思った。
日米の関係性や近代史は、しばしば太平洋戦争と原子爆弾の投下という結末の側から語られる。しかし私が知りたいのは、その結末というよりも、そこへ人間を運んでいった動機のほうである。より速く、より遠くへ、より多くを——そう望むたびに新しい資源とエネルギーを求めてきた人類の欲望が、どのように近代化を駆動し、植民地主義や帝国主義と結びつき、やがて戦争と、その極限にある核兵器の使用へと繋がっていったのか。捕鯨は最初期のグローバル産業だったが、鯨油から石炭、石油、電気、そして原子力へと、主役を替えながらエネルギーは膨張を続けている。鎖国下の日本から漂流したジョン万次郎を起点に、MASS MoCAという場所の歴史を繋ぎ直しながら、近代化とグローバリゼーションとは何だったのかを考えたいと思った。
1841年、14歳の万次郎は土佐の宇佐浦から漁に出て嵐に遭い、無人島の鳥島に漂着する。約5か月後、ウィリアム・ホイットフィールド船長率いるアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された。ハワイで船を降りた仲間たちとは別に、万次郎だけが自らの意思で船に残り、船長の故郷であるマサチューセッツ州フェアヘイヴン(Fairhaven)へ渡る。封建制の日本から来た彼が感銘を受けたのは、身分ではなく個人の努力や能力が評価されるという精神だった。1851年に琉球へ上陸して帰国を果たしたのち、彼は西洋の航海術や英語を伝え、日本の近代化に大きく貢献することになる。



また、滞在中に強く関心を引いたのが、この工場跡地そのものが辿った歴史である。MASS MoCAの広大なレンガ造りの建物群は、1860年に創業した捺染工場「アーノルド・プリント・ワークス(Arnold Print Works)」として始まり、最盛期には世界有数のプリント生地の産地となった。同社が1942年に操業を終えると、その建物群を買い取ったのが、1930年にノースアダムスへ移ってきていた電気部品メーカー「スプラーグ・エレクトリック(Sprague Electric)社」である。1966年には、街の4分の1近くが、ひとつの会社に属していたことになる。



第二次世界大戦中、スプラーグ社の物理学者や技術者たちは米政府の求めに応じ、当時最先端の兵器システムの中核部品を設計・製造していた。原子爆弾もそのひとつである。いま私が滞在している、この建物で。


戦後、日本は朝鮮戦争の特需で復興を遂げる。1980年代に入ると、安価で高品質な日本などの海外製品が台頭し、さらに極端なドル高・円安がアメリカの製造業を直撃した。1985年、スプラーグ社はノースアダムスの工場を閉鎖する。同じ年の9月、プラザ合意によって為替の是正が図られるが、街の産業はすでに失われていた。



そのどん底からの再生計画として工場群を再利用し、1999年に開館したのがMASS MoCAである。しかしそれは同時に、典型的なジェントリフィケーションによる文化的な摩擦も生んでいる。
滞在2日目のことだった。MASS MoCAのスタッフが私たち滞在アーティストを連れて街を案内していたとき、1台の車がクラクションを鳴らした。振り向くと、窓から中指を立てて走り去っていった。一瞬の出来事に唖然としたが、地元には、MASS MoCAやそこに集まる人々をよく思っていない層が一定数いるらしい。ノースアダムスはあちこちにレインボーフラッグが掲げられているほど比較的リベラルな街だが、工場とともに職を失った旧労働者階級の住民からすれば、外からやってくるアート関係者や観光客は敵に見えるのかもしれない。

工場が去ったあとに残るのは、失われた仕事だけではない。能力に応じて人が評価される社会は、裏返せば、うまくいかなかったことの責任もまた個人に返す。走り去る車の窓から突き出された中指は、その行き場のない苛立ちのようにも見えた。
万次郎が身分制からの解放という「希望」として持ち帰った考え方——生まれではなく能力によって人は用いられるべきだ——は、180年後の現代において、絶え間ない自己証明を強いる重圧へと反転している。
反転しているのは、それだけではない。万次郎が渡ったアメリカは、少なくとも彼の目には、生まれや身分から人を解き放つ場所として映っていた。その自由と平等の理念は、やがて民主主義という名で、アメリカ自身が世界へ押し広げていくものになる。ところがいま、その国は入国を制限する側に回っている。2026年に入ってからも渡航禁止の対象国は拡大を続け、世界はふたたび閉じようとしている。閉じた国から開かれた国へ渡った万次郎の物語は、開かれていたはずの国が閉じていく現在から振り返ると、まったく違う手触りを持ちはじめる。
能力主義と、開かれた世界。万次郎がアメリカから持ち帰った二つの希望は、どちらも裏返っている。その裏返りを掬い上げ、編み直すことが、今回の滞在制作の核となった。
アメリカの企業ノベルティとして広く普及している地球儀型のストレスボールに、万次郎の言葉とされる「All people should be engaged based on their capability(人間は全て能力で用いられるべきだ)」を印刷した。観客はそれを手に取り、握りしめる。希望として語られた言葉は、手のひらの中で潰れる地球とともに、身体的な圧力として感じられる。作品は自由に持ち帰ることができる。かつて万次郎が太平洋を越えて持ち帰ったものを、今度は観客がそれぞれの場所へ持ち帰っていく。
6月25日のオープンスタジオでは、滞在中に制作した259枚のポストカード作品、ハーマン・メルヴィルや万次郎に関するリサーチ資料、そしてこのストレスボールを、空間全体に構成して公開した。
建国250年を迎えるこの年に、この街に滞在できたことは幸運だった。鯨油を追った船が一人の少年を運び、その少年が持ち帰った言葉が、いまは手のひらで握りつぶすためのものになっている。より速く、より遠くへ、より多くを——船を出させたその欲望と、いま国境を閉じさせている力は、どこかで繋がっているはずである。
© 2026 Rui Yamaguchi