MASS MoCA_Open Studios

マサチューセッツ現代美術館に滞在中、初めてアメリカで生活した日本人・ジョン万次郎(1827-1898)を起点に、近代化とグローバリゼーション、そしてこの工場跡地の歴史がどのように絡み合っているのかリサーチと制作を行った。

1841年、14歳だった万次郎は高知の宇佐沖で遭難し、米国の捕鯨船に救助された。ホイットフィールド船長に才能を見出された万次郎は米国へ渡ることを決意。マサチューセッツ州フェアヘイヴンで英語や西洋の航海術を学び、後に捕鯨船の一等航海士にまで昇格する。日本は200年以上鎖国を続ける封建社会だったが、米国で万次郎が感動したのは、生まれではなく能力で正当に評価されるという自由と平等の精神だった。1851年に帰国した彼は、後進の育成によって、のちの日本の近代化に重要な役割を果たした。

万次郎の帰国から2年後の1853年、ペリーが黒船を率いて来航し日本に開国を迫った。理由の一つは、捕鯨船のための補給地確保のためだった。万次郎は通訳として適任と考えられていたが、幕府に米国のスパイと疑われ交渉から外される。この時結ばれた不平等条約を覆し、西洋列強と対等になるという願いが、やがて日本の帝国主義と海外進出への原動力となっていった。

万次郎を救った捕鯨船は、初期のグローバルエネルギー産業である。やがてそれらは鯨油から石油、電力、そして原子力へ移行していく。このMASS MoCAの建物は、かつてマンハッタン計画(原爆開発)に参加し、原子爆弾に使用されるコンデンサを製造したスプラーグ・エレクトリック社の工場であった。

戦後、日本経済は朝鮮戦争時に米軍へ物資やサービスを供給することで復興し、やがて日本製品が世界市場を席巻。米国経済を大きく圧迫する。これによって1985年のプラザ合意に至るが、時すでに遅く、スプラーグ社は同年閉鎖された。その跡地が現在のMASS MoCAへ生まれ変わった。