中浜万次郎(ジョン万次郎)を起点とした近代化とグローバリゼーション

マサチューセッツ現代美術館(ノースアダムス、アメリカ)
2026年レジデンシー:MASS MoCA Residency (Full General Fellowship)
滞在期間:2026年6月4日–30日(27日間)
助成:公益財団法人 小笠原敏晶記念財団

2026年6月、米国最大級の現代美術館MASS MoCA(マサチューセッツ現代美術館)のレジデンシーに参加した。幕末に太平洋を漂流したジョン万次郎(中浜万次郎、1827–1898)を起点に、近代化とグローバリゼーション、そしてこの美術館の建物が歩んだ歴史がどのように交差しているのか、リサーチを行った。

ホイットフィールド・万次郎友好記念館にて撮影

私は「移動」や「越境」、「偶然性」をテーマに制作している。そのため、MASS MoCAでの滞在が決まった際、真っ先に思い浮かんだのが中浜万次郎だった。彼は意図せぬ漂流を経てマサチューセッツ州フェアヘイヴンに渡り、アメリカで教育を受けた最初の日本人となった人物である。

フェアヘイヴン フォート・フェニックス・ステート・リザベーション

1841年1月5日、14歳の万次郎は土佐の宇佐浦から仲間と漁に出て遭難し、無人島の鳥島に漂着する。約5か月を生き延び、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助される。当時の日本は鎖国体制で外国船は入港することができず、ハワイで一度降ろされる。そして万次郎は自らの意思で、ホイットフィールド船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘイヴン(Fairhaven)へ渡る。そこで英語をはじめ、測量術や航海術、捕鯨といった多岐にわたる知識と技術を身につける。

ホイットフィールド・万次郎友好記念館 訪問(2026年6月22日)
ホイットフィールド船長と中浜万次郎の記念碑

封建制の日本から来た万次郎がアメリカで感銘を受けたのは、身分ではなく、個人の努力や能力が評価される社会だった。すでにアメリカでは民主主義が広まり、選挙によって大統領が選ばれていた。万次郎はアメリカで多くのことを学び、捕鯨船員として世界中を航海する。ハワイで仲間と再会した後、1851年に日本への帰国に成功。西洋の航海術や英語を伝え、日本の近代化に大きく貢献する。その2年後の1853年には、ペリーが黒船を率いて浦賀に来航する。

1854年3月8日、横浜に上陸するペリー一行。湾には艦隊が並ぶ
横浜に上陸するペリー一行(ヴィルヘルム・ハイネの原画によるリトグラフ、1855年)

滞在中、MASS MoCAと同じバークシャー郡のピッツフィールドに、作家ハーマン・メルヴィルが『白鯨』などの小説を執筆した家(Arrowhead)が残っていることを知り、訪ねた。メルヴィルが捕鯨船アクシュネット号に乗り組んでフェアヘイヴンを発ったのは1841年1月3日であり(万次郎が宇佐浦から漁に出たのは1841年の1月5日)、万次郎が漂流の末に辿り着いた港から、メルヴィルは海へ出ていた。万次郎が日本に帰国した1851年に、メルヴィルはアメリカ文学を代表する『白鯨』を出版した。

アローヘッド

私が滞在したMASS MoCAの広大なレンガ造りの建物群もまた、近代化の歴史と深く結びついている。そしてその歴史は、日本とも無縁ではない。

MASS MoCA(スタジオからの風景)

建物は1860年創業の捺染工場「アーノルド・プリント・ワークス(Arnold Print Works)」として始まり、最盛期には世界有数のプリント生地メーカーとなった。1942年に同社が操業を終えると、建物群は電気部品メーカー「スプラーグ・エレクトリック(Sprague Electric)」の手に渡る。同社は1930年にノースアダムスへ移ってきていた。1966年には、街の人口の約4分の1にあたる人々がこの一社で働いていたという。

Sprague Electric Victory Log 1946年9月28日号 1面
『Sprague Electric Victory Log』1946年9月28日号
Sprague Log 1956年10月号 1面
『Sprague Log』1956年10月号

そして第二次世界大戦中、スプラーグ社の物理学者や技術者たちは米政府の求めに応じ、最先端の兵器システムの中核部品を設計・製造した。その兵器システムのひとつが、日本に投下された原子爆弾だった。

Sprague Electric Victory Log 1945年8月11日号 1面。「Sprague Supplies Parts For Atomic Bomb」の記事
『Sprague Electric Victory Log』1945年8月11日号。長崎への原爆投下の2日後、1面に「Sprague Supplies Parts For Atomic Bomb」の記事が載った
1945年8月9日、長崎上空のきのこ雲
長崎上空のきのこ雲、1945年8月9日(撮影:Charles Levy)

戦後、日本は朝鮮戦争の特需で復興を遂げる。1980年代には日本をはじめとする海外製品が安価かつ高品質になって台頭し、極端なドル高・円安がアメリカの製造業を直撃した。1985年、スプラーグ社はノースアダムスの工場を閉鎖する。同年9月のプラザ合意で為替の是正が図られたが、街の産業はすでに失われていた。

1987年4月30日、ホワイトハウスでの中曽根康弘首相公式訪問歓迎式典で演説するレーガン大統領
中曽根首相の公式訪問を迎えるレーガン大統領、1987年4月30日(National Archives photo no. 198583)
円ドル為替レート1984–1988年。1985年9月22日のプラザ合意を境に急落する
円ドル為替レート 1984–1988(FRED DEXJPUSより作図)

産業を失った街の再生計画として工場群が再利用され、1999年に開館したのがMASS MoCAである。一方でそれは、職を失った労働者階級の住民と、外からやってくるアート関係者や観光客とのあいだに、ジェントリフィケーションによる摩擦を生んでもいる。

MASS MoCA

さて、私の中にある問いは「近代/グローバリゼーションとは一体何か」ということである。

日本人として原子爆弾をめぐる歴史を調べるだけでなく、その開発へと人を駆り立てた動機に関心がある。「より速く、より遠くへ、より多くを」という欲望は、鯨油から石炭、石油、電気、そして原子力へとエネルギー源を替えながら近代化を駆動し、植民地主義や帝国主義と結びつき、やがて戦争へと繋がっていったのではないかと考える。そして万次郎の漂流は、この流れのただなかで起きている。彼を救った捕鯨船は、灯りや機械油になる鯨油を求めて世界の海を回る、当時の資源獲得の最前線だった。

ニューベッドフォードにて撮影

そして万次郎がアメリカで見出した、生まれではなく能力によって人が評価される社会は、当時の彼にとってたしかに希望だったはずだが、その理念は今や、どこに向かっているのだろうか。「ジョン万次郎 名言」とGoogle検索すると、よく出てくるのが「人間は全て能力で用いられるべきだ」というフレーズである。しかし、これを万次郎自身の言葉とするのは正確には誤りである。彼はまとまった自伝や語録を残しておらず、その言葉として伝わるものはすべて第三者の記録を経たものだ。

※「個人の能力と努力が評価される社会」は、当時の時代背景においては主に白人男性に適用される理念であった。黒人奴隷制やネイティブアメリカンへの迫害といった当時のアメリカン・デモクラシーの欺瞞性を捨象し、能力主義を純粋な「希望」としてのみ描くことは、歴史の複雑さをロマンチックに単純化してしまうため注意が必要である。

このフレーズが言い表しているのは、家柄や身分ではなく、個人の能力と努力によって働く場所や地位、報酬が決まるべきだとする能力主義(メリトクラシー)の考え方だ。能力で人を用いる社会は、裏を返せば、職を失うことまで本人の能力の結果とみなす社会でもある。1980年代、レーガン政権は市場の自由と個人の責任を掲げる新自由主義的な政策を進めた。自由と責任は本来ひとつの組だが、グローバル化の波によって街の産業が失われるような構造的な出来事までが個人の努力の問題として語られるとき、それは自己責任という言葉に変わる。政治哲学者マイケル・サンデルは、こうした能力主義が勝者の驕りと敗者の屈辱を生み、2016年のトランプ当選に見られる反発の土壌になったと論じている。180年あまり前、万次郎がこの国で見出した希望は、いまアメリカの分断の一因として語られている。

私はあえて「人間は全て能力で用いられるべきだ」というテキストを引用して作品をつくることにした。これが万次郎の名言として紹介されていること自体が、私たちが能力主義をどれほど内面化しているかの表れに思えたからだ。素材に選んだのはストレスボールである。安価に大量生産でき、デスクや自宅に置かれて長く目に触れる。その費用対効果の高さから、アメリカの企業ノベルティの定番になっている。万次郎の言葉をアメリカ人の協力のもとで英訳して地球儀型のストレスボールにプリントし、来場者が持ち帰ることのできるリレーショナル・アート作品としてMASS MoCAのオープンスタジオで発表した。

滞在中、私がプレゼンテーションしたところでは万次郎もペリーもほとんど知られておらず、遭難から始まり日米を結ぶことになった彼の人生は、驚きをもって受け止められた。一方で、原子爆弾に触れた部分への反応は薄く、日本にとっての大きな出来事が、アメリカでは数ある出来事のひとつとして受け取られているように感じた。

アメリカ建国250年の年に、MASS MoCAのあるノースアダムスやフェアヘイヴン、ニューベッドフォードに滞在できたのは幸運だったと思う。今回の滞在で、調べるべき資料も、これから行かなくてはならない土地もさらに増えた。得た問いや経験を手がかりに、引き続きリサーチと制作を続けていく。

画像クレジット

  • The Sprague Log, Vol. 8, No. 1 (August 11, 1945); Vol. 9, No. 4 (September 28, 1946); Vol. 19, No. 2 (October 1956). Sprague Electric Co. Digitized by MCLA Freel Library / Internet Archive. Public domain. — 1945 / 1946 / 1956 / Sprague Log 一覧
  • Landing of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron, to Meet the Imperial Commissioners at Yoku-Hama, March 8th, 1854. Lithograph by Eliphalet M. Brown Jr. after Wilhelm Heine, 1855. National Portrait Gallery, Smithsonian Institution. Wikimedia Commons. Public domain.
  • Mushroom cloud over Nagasaki, August 9, 1945. Photo: Charles Levy. Wikimedia Commons. Public domain.
  • President Reagan at the White House State Visit of Prime Minister Nakasone, April 30, 1987. White House Photographic Office. National Archives photo no. 198583. Wikimedia Commons. Public domain.
  • 円ドル為替レート作図:FRED (DEXJPUS), Federal Reserve Bank of St. Louis. 作図=山口塁